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【曲名】 出発560 網走番外地
創曲、冴柳雪広・正(やなぎ) 2021/07/03
造詞、冴柳小夜・正
2021/07/03
監修、ほうきき・正
2021/07/03
【拍子】4/4
【種類】
【演奏】
【場所】
【作成ソフト】
Music
ScorePro、シルバースタージャパン社
【歌詞】正里
こめか去りゆく前そり夕垂れ 夕期の絵
ほいかなみ夕 あそぜられす 葉の絵られす
あしびきに夜かられ さんかっける かあ晴れら
すずるいそま 夕がれしっきのそいそれ
はなみるみっとれ うくらす すべりゆ
そりしっかまふ ありそらず 天里のふらず津せら
歌語。歌語は、歌に使う言葉。
【今常】
そうきょうよい時です。
【解説】
2021/07/03
【歌詞解説】
奈良三輪、天里の西に崖があったという。ここを、
あばす、という、後とぞそ、網走という、あそすり、と
いう。後の、崖の開拓という。崖を、ころれり、という。
コロポックルの言いという、げんそんてんてら、という。
めぬっそずのおりさっくす、という。さくれすの言いの
天里の親冠語という、ここの西山という、ここを、山
さみ、という、後、番外の地という、後とす、せらせ、
番外地の位置という、数の一を掛けた言いとぞす。
番外一という場所の呼びの言いの、はなゆみ、と
いう。弓ぜらおってて、という。おつてつの言いとぞす。
番外という、外の崖の呼び遣り、という。外の崖へ
行く日の言葉とぞす。
『番外よってつ』という、『番外へ行きます』という
意とぞそ。これのいいの歌という。言葉が歌の言葉
という、歌語という。後、奈良っそりっく、という言葉の
ことである。
奈良っそりのふみゆみ、という。れれての言いの、
おやいすら、という、おっつりしょっつ、という。おてら
らのおいっしょ、という。これを、らおたら、という。
寺を、寺ら、という、おてらら、という。るべんはっくす
の言いとぞそ。
歌語の歌のおとし、という。このとしの歌という。
おらっせらるう、という、おらせの言いそみの、るてら、
という。るみっそれいのとびとい、という。とっせまの
言いという。これが、奈良のやなふわ、という。
やなふわの言葉という。るいっとんびっく、という。
るみっそれえという、ぱじょしかのかってす、という。
かりせらの言葉という。これが後、奈良方言になる。
これを、奈良のへきさき、という。奈良の水の多かっ
た頃の言いとぞす。これが『なもう』という、言葉の
最後につける言いという、現在の奈良の言いという。
『そうだなもう』という、『そうやなもう』という、るみっ
さんぱっくす、という。奈良の言葉という。るみぜる、
という。言葉のことである。
ここの英語の言いとぞそ。英語が、はなふす用と
いう、これを、ごっせるかっくす、という。奈良れら、
という、言葉の使いという。
冠語の『れら』という、歌語の『れら』という。
『はってられっせつ』という、べにさんの言いとぞ。
この『せつ』が、説である、後のこととぞ。
自分の言いを説という、これを、奈良じせ、と
いう。自分の説を、奈良じす、という。
この『じす』が、今の『ジス』である、工業製品
などに使う単位の言葉という。奈良発のじすである。
奈良語から出た用語とぞそ。
自分の説を、自分の体とする言いという、今の
身長、五尺一寸という言いの、じすみす、という、
じす言いという。これを、ならす意味の言葉という、
じすみすで、ならした言葉とぞそ。言葉を他地域
に広げていく、一つの言いという。
『じすみすれってらぁ』という、てれっその言いとぞす。
これで、尺寸が広まる言葉という。後、はなふすよい
ほる、という。これが、今のジスという、ジスのやいとり、
という。主に物の長さの単位に広めをする、尺貫録
という。これを、みきしっぴし、という、初期の尺貫法
という。ジス言いという。これを、ゆっぱく、という。
歌のゆっ拍の律とりという。これで、歌で広める
、ろわっすらぁ、という。これが、墨スリのすぱれる、と
いう。奈良の墨のことの話に広めをとる、てきやき、と
いう。墨のことを、てきやき、という。
網走番外地の墨ガレという、墨のような崖のこと
という。天里の西の方である。ここに『夕が垂れる』と
いう、夕方が来る景色という、これが、きみすみ、と
いう、君が住んだ崖という。私が住んだことという。
きみわたし、君私、という、私の意の『きみわたし』と
いう言葉である。口語では、君と私という意である。
きみわたし、という自分を表す、こいこい、という
言葉使いである。こいこいは、言葉の使い方である。
めのっすず、という、めのふり、ともいう、言葉の使い。
この歌である。この歌の話である。説明である。
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名歌『網走番外地』 秋残り解
『春に春に追われし花も散る
酒(きす)ひけ酒ひけ酒暮(きすぐ)れて
どうせ俺らの行く先は
その名も網走番外地
キラリキラリ光った流れ星
燃えるこの身は北の果て
姓は誰々 名は誰々
その名も網走番外地
遙か遙か彼方にゃオホーツク
紅い真っ紅なハマナスが
海を見てます泣いてます
その名も網走番外地
追われ追われこの身を故里で
かばってくれた可愛(まぶ)い娘(スケ)
かけてやりたや優言葉(やさ)
今の俺らじゃままならぬ』
酒(きす):酒(さか、さけ)のこと、坂のこと。
どうせ: 道西(どうせ)、ここでは、北海道の地名で
ある。かた霧の霧の出る所である。
(『キス坂』と、『坂』を補えば、よくわかり、
坂のことである。現、英語の
Question to ask
の類。)
坂で、空を見ていた、流れ星のことという。
きすづ(酒津、坂津)の景、きすづという一般名詞、
後、坂津という地名の固有名詞になる、酒津(さかつ、
さかづ、さけつ、さけづ)とも。
『キスひけ』は、『坂にいる、坂へ行く』ことの意。
坂麓であろうか、『ふもとゆみ』という言いという。
この『ゆみ』が、『きみゆみ』という、きみわたし
君私、という、私の言いになる、『ゆみ』で、『私』
の意である。『ゆみひけ』という、『私がいる』と
いう、現居所の意味になる。『地』という言葉を補い、
『ゆみひけ地』という。
『酒』が、『坂』の意で、この意の使いという。
きすひけ、という、幕府の言葉でもある。
季節を『子』という、夏子、夏の子、という。
これを、すけらぜ、という。
『まぶい』という、まっつくの言いの、てよそっと、という。
まっぱく山の言いという、ほぼ冠語である。
まぶい娘(スケ)、まぶい娘(コ)、という、マッペラ期の
ことで、その言いである。
「まぶい』という、べっせらのらおん、という、らりるぅ、
という、らりっての言いの言葉という。
『まぶいスケ』という、魚の大きな、まぶそう鰯、という。
これを、まぶいスケソウだら、という、スケソウ鰯のこと
という。
故郷が道西という場所である。そこの歌である。
これが、冠語の見方である。
酒と女という、口語の解ともいう。スケという、
女である。べっぴんさん、という、べっぴんしゃん、と
いう、女性の呼びという。『スケ』が、きよれ、という、
清いという言葉の含みの女性のことという。
酒を呑んでいる話という。
『ハマナス』という女の充てに使われた言葉という、
これが、掛けの、清いハマナスのような女性という。
これを、サクラ連という、サクラのことを『ハマナスそめ
』という、替え言いの冠語である。サクラを花の代表
にとる、道西の発である。小樽西辺りである。網走
という場所である。足走のことの古い言いである。
『アミ』で漁師が掛かってくることという。
後、宗谷の方の歌になる、少し南である。
今の網走である。ならず者という歌という。
古い日の『ならずや』である。ならづの奈良津
である。天里の津ともいう、天里を入れた解釈という。
天里奈良津のもの、とそ。
宗谷の奈良津で、網走の番外である。
((ハマナス総北という、方道德の一般名詞である、冠語の
一般名詞という。レルッソン・サーフラーという、
レロッソのロブセクという、レロットの言いという。
総北という、めるせるのおいさず、とそ。
ルッソロッソの言葉の使いという。ロルレルという、後、
宗谷番外という言葉の種類である。後、ルロレという、
ルロス、ルロソという、後、オルソロルという、これが、
ロシという、言葉の種類である、ローシーニという、
ロッシーニという言葉の使いである。後、オロレスという、
レスロッソという、後、ロシアッツクという、ロシソラと
いう、ソロレンテスのロシア語という。この言葉との成り
が、地名にある、宗谷の地名という、ロシア語の入れと
いう、ロシアの侵攻という、ロシア語のことという。
宗谷の古いロシア地である、これを、江戸幕テスという、
幕府論具という、ロシア語の話である。
宗谷を、おろせま、という、これが『オロシア』の語源
である。後、ロシアという。この期の日本語である。
オロシア語という、日本語の一種という。オローラン・
ファックスという。
ロシアという、日本の一地方である。宗谷辺りのことを
いう。つゆべらふっくすの言葉の意という、つゆの地と
いう、つゆ山の言いという、ここの言葉を、つゆ語という、
露語と書く。
後、外国の地名に充てることの、ロシア語乱入という、
ロシアが攻めてきたという、ロシア語を使う、ことの言い
という。この『ロシア語』が、当時の、つゆ山の言葉で
ある。キリールレンテという言葉である。これを、英花
露語という。
これの延伸が、一部、今のロシア語である、外国のロ
シア語である。奈良津さんふり、という、北海道の宗谷の
地のことで、言葉の入れという、地に言葉を入れる行為と
いう。『攻め』という、ロシア侵攻という、ロシア語入れ
という。宗谷地区の言葉が延伸という、今のロシア語であ
る。ダーイル・そっとく、という、この『ダー』が、今の
外国語のロシア語の『ダー』である、『はい』の意である。
これを、エトリーシカという、エトリショという、ハラショ
ーの言いという。ロシア語を、エトリーシカという、日本
語の一部という。これが、ウラル・アルタイのロシア録で
ある、今のロシア語という。
若い人が宗谷にいた話という、網走番外地の話という。
天里をソーレスという、ソーラン・ラッキスという
初期の、あませら語である。これを、エトリーシカ・ラッ
クスという、つゆ語を使って宗谷へ行く、若い人行である。
網走番外地へ行った人である若い人である。アマ里に宗谷
という場所があることという。がらっせらという、谷の
ことの言いという、谷に露が降りる話という。つゆの言葉
という、今のロシア語である。タオッソンメレーテルという
冠そめらんぎ、という、ランの花のことの言いを、露降り
のランに掛ける造りとぞ、ロシア語の造りである。
御所のローエル・セックスという、つゆびらの言葉という。
宗谷の網走番外地という、アッパセーラの言いっそんずう、
という、この官語の説明である。アッパセーラー・ラッ
クスという、ダワッソンレーテの、いぱしば、という。
古く、しば語という、つゆ芝の降りの、つゆ降りの言葉
である。ロシア語に『つゆ』の言葉がある話という。
日本録の日露という、日露という日本のことである。
日露漁業という、日本のことである。
))
奈良宮のならずもの、という、奈良の宮のことである。
ならっしゃんす、という、天里のてんとわ、という、これを、
とわの言いという、永遠と書く、ならずのことの言いとぞ。
ならないことの、とわ、という、永遠という。奈良宮の
言いである。奈良宮の『ならず』という言葉の解である。
このまま冠語にすれば、脳の経路の歌である。
あばしりという、あばすうの出の場の経路という。脳内
のあばしりである所の出のことの経路という。しゃっくす
の解とぞ。しゃっかんれっけす、という脳の解釈の言葉
の歌である。
農工の歌ともいう、脳のがべぜるのいそしぎの歌と
いう。『しぎたつ沢の秋のゆうぐれ』が掛かりである。
脳、農のがってくすの歌というう、れれっそのゆいその
ことの糸すり、という、『いとをする』という言葉の解と
ぞそ。あってさあるっくすのおりらら、とすぞ。
****************************
本歌
『こめか去りゆくまえ』という、こめか闇という、闇のこ
とという、夕方の闇のことである。
『そりしっかまふ』という、この『まふ』がまぶいの意という、
まぶしいのことである。
『まぶいゆっけさ』という、ゆりゆりの言いの夕方のまぶ
しい光のことという、『そりしっかまふ』という、夕方の
光の闇という。光を見れば一瞬暗くなる、『しっかま』と
いう時間である。
『カー』は、山のこと。
『さんかける』という、褒めのことを『さん』という、
人名に使うことともいう、冠語と口語の
両法の言葉である。『れっぱつれろっとと』という言葉の
使いである。『らりーおんせらー』という言葉の掛かりの
るおっす、という、れれっせの言いとぞず、『さん』の言葉
という。『おっす』という、人に会うた時の言葉ともいう。
脳の『みつま』という所で発生する言葉とぞ。
おれまがりの一部分である。海馬の一部とそ、海馬
闇という場所である。これを、脳の花おり語という、
海馬闇の言葉。脳医学の掛かりの冠語である。
大脳へ行って、かいさまりく、という場所で、整理
した言葉という、『みつま』の話という。
おれまがりみつまで、『さき』という、大脳へ行き、
『さん』という、諸機能を経た言葉である。経路が
、
みつまゆりはな、という、海馬から大脳のかいさまりく
への経路という。
大脳陸という陸である、ここの場所という。大脳の
前頭部の一部とぞいう。
後、延髄へ行く掛かりである、延髄へ行き、『おりょ
らき』という言葉になる。延髄語の『さん』である、
おりょらきという。
脳の中心のほぼ真下の延髄である部という。
これが一瞬のうちに行き交う、ことの旅という、
言葉の旅である、思想のことという。思想の発生の
考察という。言葉を大切にすることという話である。
前歌 DE550
http://akinokori.sblo.jp/archives/20210703-1.html
『春去来』の歌の、『夏の子』というのが、夏のことで
ある。夏子という、言葉を添える言いという、夏子
の期、夏子の季節という、意とぞそ。『子』が季節である
言いという。ロシアの地の言いという。チャイルドという
季節の意とも。サマー・チャイルドという言いである。
緑つゆ丸という、緑児の話である。緑梅雨の梅雨前の
ことという、サマーレンテスという、冠語での表しとそ。
『ゆうかま』という、今の奈良三輪の教団の古い建物
の前の地である。脳を喩える場所である、奈良三輪す
らぁ、という建物の地の外の間辺りの地である、
『しっかまれ』ともいう。よく歩いて所である。古い
みよ様の御地という、奈良三輪教という教団ができる前
のことという。『しっせんさっつらぁ』のおあゆみ、という、
後にもよく歩いていた場である。
奈良三輪にいた頃の若い人の話である。
そうきょうよいお書き。J03.
******
『天照大神、そうきょう、よいよい』