前書き 小説などと大層たらしく、書きましたが、
この40年弱、小説は全く読んでません。
書いてみようと思いました。構想は、頭は
空っぽで、どこからどう考えてよいやら、
皆目見当がつきません、
考えようにも考えられません。
そんなところで、思いつくまま、書いて
いこうと思います。結論とか、全然考えて
おりません。杜撰な頭脳の披露となるかも
しれまん。大体、小説などと、私には無理
です。しかし、書いてみようと思ったもので、
始めました。
恥などというものは、偉いお方や、地位、
名誉のある人のいうことで、私にはそんなものは
ありません。自分が格好悪いと考えているだけで
他の人は何とも思っていないでしょう。
落書き短編というところで、頭の体操にも
ならないでしょう。やってみます。
第一章
輪をとめて 畑より開く 春の宴
我が衣手は 露とおきぬる 平成22.8.10
その人は降り立った。 22.8.9ここより
辺りは、一面田畑で覆われている。緑輝く皐
月、人生歩むにもってこいのところである。
名は居千尋という。姓は立山である。
学を志すを、意気に感じている青少年であ
る。特徴と言えば、少しこじんまりとした体
つきで、前を清楚に見つめる、そんな感じが
する好青年である。まだ、子供っぽさが残る
顔つきで、話にうなづく素直が、あどけなさ
と調和をしている。友を見るに、人懐っこい
笑みがこぼれる。「そう」という時に、口を
すぼめる癖とも思われる。時間に尋ねるを、
こよなく好く人である。祖母にかってもらっ
た時計といい、喜び見ている。そは、美をも
意識するそぶりも見受けられる。楽しいこと
を体で表したように行動する姿は穢れなく、
周りを清らに感じさす。こんな風である。
平成22.8.9これまで
毎日、論語を読むという。そんな過去があ 22.8.10ここから
る。そのせいか、現今は、明治天皇御製集を
、毎日読むという。今では、少し変わった趣
向である。昔の古い本を読むのが好きだとい
う。理由は、昔の教育を自分は受けるのだと
、そんな他愛もないものである。現代社会で
戦前の教育を受ければ、どうなるか。それを
実践しようと、それで、昔の本を読むという
。大人びたことをいう人である。
さて、その人が降り立ったところである。
人口幾許もなく、町というより、村といった
ようなところで、藁葺きの家こそないが、閑
静の田園という感がある。丘が好きだという
その人には、意向相食む土地である。右手に
連なる山々の崎を見、道をいけば、丘が成る
を感じる。他に道行く人もなく、その一群だ
けである。楽しく世々の声を聞く。
22.8.10ここまで
日ゆく日、月流れ月、去り行く日々を惜し
人でもある。月を見るに、名月とは盆のよ
うなものである。そんなことを得意気に話す。
田畑中を歩き、目を見遣れば、そこらかし
こに緑の農作物が見える。ある日のこと、霧
か靄か、直径3メートルほどの、球体が地上
にあちこち出ている。その人にとっては、生まれて初
めてのことである。驚きの目で見る。心はは
しゃぎ、喜び回る。その球体を目指し、中へ
入ったのである。ただ、それだけのことであ
る。うれしさ一入といったところである。その
日は、そのことを楽しげに話す一日の人で
ある。また、ここはそんな地である。思えば
幼少期に御父に連れられて来たことがある
。必ず、また、ここへ来る、そう決心した所で
ある。一瞬、そんなことが脳裏を横切る。夢
成るを得た人である。あの霧の球体は、この
記念であろうか。誰知ることのない、自然の
その人への贈り物である。人生意気に感じ
明日を思う人である。ふっと沸き、ふっと切れ
た幼少期の思い出、この今を思うに、ただ
ただ多く、胸深く、感謝を捧げるその人であ
る。今、生きる自分に、殊更に御父御母に
感謝を深くするひとである。
{超方空」 平成
22/10/14
第二章
心の中---古きを訪ねて
「御天のごそうきょう」
友と話している中、クーリーという言葉が出
た、その瞬間、思いは予期せぬ過去へ飛んだ。
日本語のクーリーという言葉である。祭りの山
車を引く人をクーリーという。クーリーの引く、山
車の前の出っ張った棒を「でくの棒」という。こ
んな話である。その人は、祭りが好きな人であ
る。この一寒村の祭りを見るにつけ、忘れ去っ
た昔の日々が思い出される。それとともに、町
の祭りしかみない日、小さい村の祭りに、日本
の祭りを見ようとするひとである。「村の鎮守の
神様の・・・」こんな歌声が聞こえてくるような、そ
んな祭りを大切に思い、自分でも楽しむひとである。
思い出は古くなり、ほぼ忘れてしまい、再び
思い出すことはないであろう、そんな思い出ま
で、頭に暫し、描かれ出てきた。 「御天のご
そうきょう」、これが挨拶であったことが思い出
された。その人が古い古い過去にした挨拶で
ある。思うに、この挨拶をされた人は、また、ど
んな場所で、こんな挨拶をするのやら、今のそ
の人の境遇から想像だにできない。その人も、
今の自分を見ると、自分の思い出しが間違って
いるのかと思うほど、考えられない状況のことで
ある。しかし、紛れもない、これは、自分が過去
にした挨拶である。古い昔の日本が残っている
頃の、その人の挨拶である。
そんな挨拶に関係有るクーリーである。そんな
場所でする挨拶である。
日は過ぎに過ぎ、夜をともる。「我が未来は、我
が過去へ向かう。」
22/10/19
友との話の中、「未来は、どのようにできていく
のであろうか。過去が即ち未来である。 今という
時間と世界、過去ができるに伴い、同時に未来が
出来ていく。未来を見るにまた、過去を省みるに、
すべて、今を軸に、過去へ向かって歩むことが、未
来へ向かって歩むことになる。未来に背を向けて、
過去に向かう。それが未来へ向かっていることになる。
時間の流れは、自分が向かう過去から、背を向けて
いる未来へとつながっている。」 なんだか、哲学の
ようなことを言い出す。
こんなことにお構いなく、周りの他の人の言葉は
耳につく。華やいだ声の方を見遣れば、こちら
を興味深げに見る人との視線も会う。その人は、
にっこり、会釈をし、また、返され、こんなことを、
途方もなく面白く感じる人である。人に興味を
持ち、人を知る、それが楽しみの人である。
女性の笑みを喜び、その人はどんな人であろうか。
心の中は、その人を知りたいという素朴なその人の
屈託ない欲求である。その人が、知らないという域から
出て、知っているといううれしさを得る。ただ、そんな
たあいのないものである。
日は穢れなく過ぎていく。 22/10/20
過去を、積み木を積んで
作るかのごとく、楽しげに、丁寧に、優しく、脳裏に
残していく。
----輝く瞳の中-----
緑成す 緑の丘の 緑道
光るは瞳 影は山の身
身を映す 未来を照らし 実の実る
清き明日の身 尊い世の身
身は向かう 身を映す雲 道影は
豊かに寄す身 花の身葉の身
輝ける 未来を照らす 日の光
瞳は受けて 未来へ返し 22/10/22
第三章
「窓に雨かかり」
強雨降り、外に出でる能わず。
雨があまりにも、激しく振り出し、窓の景色は
見えず、どんよりと、暗い。
その人は、漫然と窓を見ていた。突然、声を
あげた。円の話である。この日、1ドルは、
350円という日のこと。「円は上る。倍以上に
なる。」 こんなことを口走ったのである。
周りの友は、何を言うやらと、その人を見守る。
そんな中、尚も言う。「必ず上る。」 世に
こんなことなぞ言う人のいない頃である。
不景気を口にする学者の、また、経済評論家の、
政治家の、円が安いを嘆く言葉があふれる頃の
ことである。
あくる日、「今日も円はさがってますね。」 周りから
いわれたのである。その人の言や、「経済を見るには、
短くても半年から2、3年は期間がいる。」
この間に円は上ると言うのである。今から2年後、3年後
である。全く回りは狐につつまれたという状態である。
また、その人は言う。社会科の教師に言ったのである。
「円は今の倍以上になります。」「根拠は?」「・・・・・」
根拠はないのである。上るというだけのことである。
後日、また言い出したのである。「円が上るためには
アメリカが金本位をやめたらよい。これで円は上る。」
こんなことを簡単に言ったのである。 この頃は、
ドルの金本位の世界経済である。 人は口々に、「アメリカが
金本位をやめる、そんなことはあり得ないことである。」
世界はそうである。アメリカの金本位を信じているのである。
金本位をやめる、こんなことを言う人も、世界に誰も居ない。
その人だけが声を張り上げ、「円は上る。アメリカが金本位を
やめる。」 性懲りもなく、こんなことを言うのである。
金本位は世界経済の根幹である。世界の人々の意見は微動
だにしない。
その人は、頭を疑われたのである。常識がないというのが
周りの人々で、その人の言を論外と言うのである。
世界の人々の頭は、金本位以外の経済は考えられないのである。
全くの思考外である。
2010.11.09
アメリカが金本位をやめれば、世界の経済は、たちまち混乱し、
どうなるかわからない、あり得ないことである。 また、こんな状況を
利用して革命を起こすという人まで現れる。こんなことを各国政府が
許すわけはない。アメリカもこんなことを充分知っている。だから、
アメリカが、金本位をやめることはあり得ない。こんな意見である。
アメリカの金兌換停止は、人々には、全くの思考外のことである。
これは、自分が全く考えられないことを提示された時、
頭脳が受け入れを拒否する。考えられないことを言われた、恐怖
ともいえばよいものである。考えられない状況に対する、いわれもない
現実の状況を守ろうとする反応である。 アメリカの金兌換停止は、
その人には、考えられる状況である。何の衒いもなく、人々の
考えられない状況を口にするのである。続けて、
その人は、言う。「アメリカが金本位をやめれば、
何故、世界経済は混乱するか。たとえ、やめても混乱はない。」
周りは、思考外のことを提示され、頭が混乱したのであろうか。
口角泡を飛ばさん許り、思いつく限りの否定をするだけである。
その人は、周りの意見を受け入れることなく、自信を持って、
アメリカの金兌換停止と円の上昇をいったのである。 「その後」へ続く
20101111
第四章 「恭儉己レヲ持シ」
「恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ」
その人の好きな処である。教育勅語である。その人は見事に
教育されている。自分は、これでよい。昔の教育がよいのである。
所々に昔の言葉が、その人には出てくる。過去へ行って、過去の
教育を受け、その過去で今を見る。昔の本を読むのである。
行く過去は明治半ば頃から、戦前までの過去である。この期の
教育を受けるという。その人は真剣に考えているのである。
自分以外の人は、現在の教育を受け、現在の目で、今を見れば
よい。自分と周りとは、ずれが出る。自分が心細くなるのを、感じる日も
ある。現代の中に、半世紀程遅く、遅れている人がいる。それが
自分である。そんなことをしようと、考えてしたことである。 人と考えが
あわないことがある。 心細くなる、これもよいことである。 こんな
ことをのんびりと思う人である。
「頭は軽く、楽しい気持ちで、日々を送る。」 その人の言である。
周りは、これを聞いて腹を抱えて笑い、その人を快く迎えてくれる。
その人は、水を得た魚の如く、喜びはしゃぐ。人生が楽しいのである。
ただ、半世紀遅れた教育を受けている。この教育を頭において発言を
することを心がけている。自分の意見に、周りの同意がない場合、
見た目にも気の毒な程、しょげかえる。すぐに、そんなことを忘れ、
また元の明るさを取り戻す。周りもこれに同調し、にこやかが漂う。
ある日のこと。
自分は逢引をするという。どんな逢引か。目指すは、かの源氏物語の
「光の君」である。こんなことを言ったのである。周りは、どっと笑い転げ
、笑いとどまるを得ず。突拍子もないことを言う人である。なかなか現れて
こない、もう、そろそろ現れる頃であるが・・・と付け加えた。転げ落ちん許り
の笑いである。
世々に楽しく、日は落ちるを忘れ、その人は周りの友と夕に去る。
20101111
第五章
「わっけく かくかく わっこん かくはく
わっこん こんかく わっけく らんかく
わっけく らんらん
わっかん こんけく」
突如として、その人が言い出した。「自分は葛野(かどの)
人である。」 また、周りはその人を見る。
わっけく、かくはく。その人の心の中に響いた言葉である。
続けて、「弥生時代の葛野人である」と。現在の歴史書には
のっていない。大日本史にでてくる葛野人は、時代が新しい
。「縄文時代の葛野人でもある。」と言い出した。そして、「わっけく
、かくはく」と言った。「それは何だ」「わからない、心に響いてくる。
・・・・・藁のスカートをはいて、踊っている姿かな。」
証明はできると言う。 これは、神武の頃のリズムであるとつけた。
「わっけく、こんらけ。」 これが後に、あの酒池という肉林の楽である。
この肉を「田」という。 鏨の絵という、ゆけの絵という。さめの世を
歌う楽の徒である。この世のケの世という、あたのかという。これが
テのえという。はてのえのケとなる。「てて」の語元(ごもと)という。
これがしょうを取る人と言う。
「わっけく」で手綱をとめる。「こんらけ」と引きをだす。神武天皇の御東征
の世となる。「すめらゆれ」という、ゆれのなか、舟は門出をことほぐ、手綱の
切れである。赤い布(きれ)がその名残と言う。えのみのて、「ほて」を「てしょう」
と言う。わんという、はけと、めと、てるうと言う。「てるう」とは、てだす世に
「てい」という「かてのえと」という。えびのえんの絵という。これが神武の
矢の所以である。後を「かぶらゆ」を経る「かぶ」という。かぶらの絵をくるて、と言う。
「かぶのけ」を「め」という、この人の眉にかべたかも、元の矢にとめた身のエン
に、汗が出る。あさのひの絵という。「きょうか」をとる、てとのえん、「ふのめ」に
「てと」となる。「きょうをいず」を、「きょうひく」という。きょうのことをきょうという。
これを「きょうか」という、えのよの、ぬぬひきとなる。神武の旗となる。この旗の
畑(はた)と、傍(はた)のけかが、「てと」となる。神武の肩という。人頭のえんという。
川の江となる。「かわ」を「おん」にいう、「かさ」で「いらん」をいう。「かみのかさ」と
「えのよのかわ」と「かてのけ」と「かさべのく」、「ことのえ」という。「わばえと」を「わて」に、
わがなる「わのくに」という。これをしょうという「てそのやま」をいう。「わっけく」となる。
「わたのよ」となる。「わんとめのとりおし」、「ごぶのてのえ」、「へこ」となる。この「へこ」を、
後、「兵子」と表す、「じょう」がかかる人という。「じょうへい」となる。「かぶのかま」をいう。
へいしのかまを、「いし」という。いしのつきと、いしめに、いそをたとえ、十(じゅう)を上(かみ)と書く。
これを紙とず、ゆれという。「ゆれ」の「ゆ」を「たた」という。「たたゆれ」となる。
あさひきの、あさも、てのよふにたむらのせん、という。せんたのけけとなる。
「ゆみひき」という、「ゆめのえ」という。ゆみをひくてを、てという。「てて」のごもうと、
「て」の「て」に「て」がなる、「てて」となる。「わっけく」で、てが出るきみのてを、
「きみのよ」という。ききとみの、けて、という。「かづぬ」を「かどの」という、「おづぬ」の「おと」のは、
「はは」をいう。「かづらぬおづぬ」という。「かづきのえ」という。「かづきゆめのふ」という。
この文を「かづらぬゆ」という。弥生のことを書いた文である。
全文、平仮名の、しだりぶん、という。しだきえの絵に出す「えとの
こけ」とぬる絵のいろえ、「てて」と「はは」の、ちはべを「とと」という。「てみや」の
「ほとべ」、「ぱっぺ」の「ぺ」が、のるゆれと、みて、としをとる、人という。
「としよ」のえんとなる。「えて」と「え」と「えか」に、あかべがなる。あかが出る、「てこ」という。
「てこ」で「出(で)」を出る、「津の出」で、かどを「かど」と「門」と「角」に、「分かち出」という。
「和歌」の出の手の平を、「平手(ひらで)」という。平手の絵のゆれ、筆を、ふなで、という。
ふね、になる。「ふね」の「ふな」という、言いが「お」のよる日の目、「え」を「よ」という。
「えとのよ」になる。「えか」という絵のゆいである。「ふ」という「えふ」である。
これを「じんよのゆ」に「じん」を神という。「人」のことを「神」という。「かみのえ」という。
「かみよ」の語元(ごもと)である。神代譜(かみよふ)の世の書き、という。
「川の尾」を「おか」という。「おか」の意になる。「おかわのおか」となる。
「おかわ」という「側(かわ)」と「川」が係る、「おかわのかわ」を、「ち」という。
「地」と書く、「ち」である。人の縁をもつ、「地縁」となる。「地の縁」を、「人」で表す「てんち」を、
天(てん)知る人という。これを「てんちびと」と書く。「てん」を「て」という、人のやのくり、という。
「やて」という日が来る。「くく」で来る。「くく」という、「く」がなる、「くぜ」という。「くぜ」の語を、
「くすのくせ」という。この「せ」を、「せ」という。瀬と背、という。「せせのぜ」という。
「せせをとる文」という。「じん」に、「ひと」という、「ひとのよのえ」を、「よのよ」という。
「よよのえ」と「よせ」と「よふ」と「よぜ」の「よ」である。ヨヨヨ、ヤヨヨ、ヨヨス、ヤヨス、ヤヨウ、ヤヨイ、
「やようとみ」という。「やよい」の語元(ごげん、語源)である。「やよい」に「や」が、意味を取らず、
「や」に「かぶ」をとる意味である。分からん書き、である。譜という、「我が世の譜」と名付(なづ)く。
難の文(なんのぶん)ともいう。何(なん)の文(ぶん)である。
「ふふふのふ」、譜譜譜の譜、ふふへのほ、ふふ、とと、ふる、ふせ、ふく、
ふきゅ、ふぜ、ふつ、ふっ、ふあっぷ、ふ ぃえ、ふ ふふ。
ふてえ書(しょ)である。ふふふふふ。
こんらけ ふふふふ こん。
こんてん ここここ。
こておけ こっと。
こてしゃ こっ。
こてむ こけ。
こっと こく。
こって ぱ。
こって ぱ。
こっと こてこて。
こっと こんけけ。
こって こせおて。
こっと こんけく。
くけくけ こんくく。
ここここ こ。
ここここ こぉ。
ここここ こっ。 この「こ」、三つが、ことの出である。
こっこと出て、とっとと回る。 とっとと出て、こつと止まる。
こつと寄って、こそととる。これをこそどる、取りの書となる。
鳥である。こそ鳥という。こその所以である。
こっそもめもめ、こそめもめ。 こそ引きのゆい。
ゆいゆいゆられて、ゆゆゆもう。
ゆいゆいゆれみて、ゆゆゆまう。
ゆれゆれゆれて、ゆれをもつ。
ゆれゆれゆられて、ゆれみのみ。
ゆられゆら、ゆらゆらゆのえ。
ゆられゆら、ゆられふ。
ゆるゆるゆるる、ゆれゆらふ。
ゆめゆるゆられ、ゆらりゆる。
ゆるゆるゆめみ、ゆめみゆる。
みゆるゆめみの、ゆめみ。
夢を見る人の心中(こころなか)、こころ夢の、こころ。
こころ濃く、こころ。こころ、うすすむ頃のこころ。
こころゆき。こころえ。こころよきかな。
こころのふ。
これは分からん弥生のよきのえ。えふみぶみ。えふふむ、えんより、
えふるえふ。ふふふのゆ。
ゆれるゆれみの、ゆれのゆという。
ゆめゆめゆるゆ。ゆめめ めめめ めゆ。
「め」を「の」にいう。
ゆめの、めのめ、のゆい。 「ゆい」とは、「ゆう」のこと。「言う」のこと。
夢の、目の目、の言い。
ほほのほ、ほほ、ほほへ、ほへ、
ほほほ、ほおぼ、ほおぼの、ほほぼ、
ほへほ、ほのよ、ほのめ、ほのみ、みほほ、
みみ、くちぞ、ゆえゆえ、ゆえのゆ。
ゆみゆみゆめゆ、ゆゆゆ、ややや、よよのや、
ここと、こことおと、ここのよ、とおとき、みみめの、や
「よお」を「や」という。「よ」の古語である。
「やをあげる」を「よあげ」に、「よあけるよお」を
「よあけ」という。「やああけた」人のよの夢の話。
はてをはてるよ、という。はては、てるよに、てらす月、
てらすおひに、よはあけて見る。ひとのえのよのすから。
「え」という、「よ」の意である。「よ」を「え」という。この日。
「日」を「えひ」にいうを、「てひ」とも言う。これを、「日の手」という。
「月の手」ともなる。「日月(じつげつ)の手」と言う。「手の日」「手の月」、
「年世(としよ)の手」、「弓を取る手」という。「日月(じつげつ)の弓引く手」
低く歩む天祖という。天球の雪をとまるえ。天球の雪と名づけた、
霧の間という。あの丸い輪に入る人である。「きりゆま」という、
まままの間(ま)、まもるめ、もゆこす、みばれの天(てん)ゆきの世、
ふむふむ、ままま、ちちはは、ありあり、天地の世、知る日々の余(よ)、
あれあれ、ゆその、そのいく、人。
まめみに、みゆる、ての日、月の世の手、てててぇ。
手と手の合わせ、せせる人、人人(ひとひと)、世余余(よよよ)。
これが、弥生の手である。やようやよいの、手の有為(うい)、「やよう」は右、
「やよい」はひだのひだめ、手の目の得手という。ひだを、やよう、やよいの
えみせ、せせせのせ、せせせのて、せせ、
「せせの得手」という。「せせよのめ」、せせ、
さっこの係るせを、てという。せりのごせとなる。せりの書(しょ)である。
この毛清き、気を盛る、せ。清盛という人の御名(おんな)のゆかしき。
平清盛となる。わたしの手という。気を持って、渡る世の淵(えん)。はてを
照る日、月清くありなん。平清盛踏襲致すは上となる人という。矢はあり得手、
弓を引く日は、月を灯す、ひよのへい。平頭(へいとう)と言う。平頭の世渡る
、すの世、ありすがの姿見、髪が身の上、日を見るを、むぶという。
むふふぶむよよ、やよの明け、ひひの恩、ありすがま、まままのみ、
ふふゆれゆ、ゆゆゆ、たつひのたつ、みたつえのよのまのよ、よよあり手、
よよ見る、平頭である。たいらのよ、あれをめるひ、若い一の髪、
若一(にゃくいち)という。後に、若一の神となる。葛野の果てという。
若一をかどねる、髪という。これを、かみの字戻した文という。かみもどすひが、
ひのひを、戻すひびという。平清盛を祭る人という。わっかんのえんとなる。むむむむむ。
平清盛を祭るワッケクである。わっけく らんこ、である。祭囃子という。
わっけく らんこ、という、拍子と言う。私の拍子である。あと、ケクケクと続く
祭りの拍子である。ワッケク ランコ、ケクケクケクケク。私にはそう聞こえる。
リズムは、ユックラ スススである。音を、「おん」という、文。私の文。
しののめぶしの、しそうとなる。
しののめ しののめ ししし すみすみ ししし すみししし
これを七分の拍子という。
ふふふふ ふみふみ ふふふぶみ
ふふふ よやよ たたみみ たんひき
ためため よよよ ビードロの笛となる。
いっきくかくいき ききゆき ききもく たみたみ てておて ててて
ととと てみみ とみみ とて 言いたるもおかし。ぎぎぎのぎ。
紫式部の式部省。今も続いていたらどうなるか。
ど、ど、どうなるどうなる のリズムは、
式部式、式部式、式部式 と聞こえる。
これが、文の字の、リズムという。
リーズムズムズム 書け書け
という。 りい進む書である。
葛野(くずらぬ)のリズムという。
やあよい はたけの みわたせば
やあよい はなあけ みすずもつ
むすめべ ふせて ひひをもる ゆき
さんさしぐれて ははのひと
やあまの みまべと ひとのよに
ひのの うすあけ とるめたるを
ひそめのえめの やませおる
ひそめて ひいめの えせのよに
よおよお こして とめをめて
ひそめて おりなす あやにしに
あやえき おおての ほほのくち
ほほめて おりひき ととのえり
ほめよむ むれよる せせのくご
くくれる よおとの おせこせと
おせおす おしおの おめおれと
おせみば ゆうえる ゆれゆらる
・・・・・・
・・・・・
これを「弥生の歌」という。弥生で歌う音のりである。
弥生時代のえとである。
ええとと えとえと えとととと
えととと えとと えととのふ
えとめと えとめ えののえの
ここえの ここよ ここえのよ
こごゆるひと、という。
これで、
わけくく わかく わけわかく
わけわけ ゆゆゆ ゆいゆいゆい
わけゆい わけゆい わけわけわけ
りいすすむ すむ すむすむすむ
分け書く 分け書く 分けを書く
・・・・・
と進んでいく。
この世の住まいのリスムである。
これがその人の頭である。
「かくかく しかじか」であると、答えた人である。
やあよいのわけ、である。
髪の毛を分けながら、考えた話である。
若い分けの髪型である。
「雄々、斯く書く、詩か字か」
2010/11/14
(日)
こんなことを言う人である。何か分からないが、
文が勝手に出てくるという。話も勝手に出てくる。
意味のわからない言葉が、脳をめぐる、その人の
脳である。文や話は切れめがない、そんなことを
言う。頭に流れる話を書くにも、切れ目がないので、
いったん書き始めたら、恐ろしく長くかかる。だから、
書かない。「これもそうか。」 一分である。こんな言葉が
頭の中にとめどなく、流れ、沸いてくる。これが証明である。
「分け書く 分け書く 分けを書く。」 リズムであり、文である。
縄文のリズムである。周りは、抱腹絶倒である。
話に時はとどまったかのように、周囲をも別世界へ
引き連れていく。
2010/11/15
(月)