放送ヤナギ
20250317-放送番組によせて、
奈良丹波市市
丹波市には、山査子が植わっている。
山査子という少し味が変わった果物。
美容によいといわれて喜ばれている。
それによく見れば、あちらこちらに
ヤナギが植わっている。昔の柳市、
東藤藩、丹波市市が復活してきた
ような感じである。
健康になりたければ、柳市へいけ
そこに住めば、健康になる、そんなことを
いわれた市である、柳市という。それで
柳をどんどん植える町である。病治しの
土地という、柳の効用を歌う地という。
川端柳という、川には猫柳が植えられ
その間に、梅、桜を植える丹波市の
ひょんけす、という。これがまた復活して
きた日という。
ひょんけす・すやれくの・め、という、
「め」を「市」という。ひょんけす・やんな
むの・市、ともいう。ひょんけすという
丹波市である。
一例柳のことともいう。
人の頭を柳という市という。この言葉の
表象という、丹波市東藤の幕府闇という、
幕府が東藤にあった話という。私のお祖
母さんがおられた東藤藩という、東藤藩に
お住まわれる御祖母さんという、上品な
御祖母さんです。丹波市の大学に教鞭を
とられれるお祖母さんという。私のお祖母
さんという。ここに山査子を植える、後、
山査子が産出地をとる、丹波市山査子
という。美容の食べ物という。
よく京都へも出荷されて、丹波市山査子や
、といわれた果物という。私の好きな食べ物
という。山査子が健康に組する、さよんかす、
という言いとそ。
さよんかすの・おませみす、という。京都
御所の言いという。おませみすの・あろり、
という。あろりふうみすの食物という。
さらに二つ三つをのせ、置かずに混ぜて
食すことという。あろりふうみすの・くいそる、
という。くいたいのやの言い。御所の我家と
いう。
御所で使われたやという。家のこと。御所の
中の家の言いという。
丹波市市(たんばいちしょ、または、柳市と
いうていた場所である。私が丹波市役所におり
ました。その頃はよい市でありました。村には
天神さんもかざられ、祭もありました。
白道しんさみ、という祭とそ、白い道の頃です。
まっ白な都市という、白い東山、白い道、
「この道は、いつか来た道・・・」
歌の町という、丹波市の町の風情をとる、
白道しょっこす、ともいう。後から出てくる
教団、このことをいわない教団という、
私は白い道やったと言います。私の好きな
白鳥らんすめ、という、丹波市の白鳥という。
白鳥市とも。火山弾が町に転がる、ひたんの場
という。ひたんという、ひだんという、被弾の
街という。火山弾じぇ。火山弾の被弾という。
被団京の場という。真っ白な火山弾という。
被弾京の家という、今の教団の建物という。
私が住んだ建物です。被弾京みんさま、という、
東山から降ってくる火山弾という、道にごろごろ
あった日という、そういうこってわす。
被弾京みんさま、というんやてな。
そら、被弾京柳やのう。エエじょエエじょ。
被弾をめでる被弾京という、柳市(やなぎいち)
被弾の・かみかりる、という、柳市の言葉という。
かみかりる、という、髪が靡くをとる、かみっ
すき、という、後、かみかりる、という。
髪が風になびいて石のようになる、これを、
とめるら、という、とめるらを、かみかりるという。
そういう場所です。被弾京といいます。
柳市一帯をとる、やなぎっしょれれせ、という、
柳市東藤藩とそ。
私の好きな東藤という幕府の藩という。その頃の
家がたくさんあります、柳を角に植え、山査子を添
える植えという。いかすみ常用する、藩のやけかく、
という、私が住んでいた頃の言いとそ。歌語を使う
場所です。柳を、おいおれ、という、歌語の屋の
言いとそ、我家とそ。池がたくさんあり、その池の
烏賊という、いかすみをとることの言いとそ、
おいおれ、という。烏賊をおいおれという、
柳をもおいおれという、やなぎみなさらの言い
とそ。
「おいおれ、おいおれ」という、東藤藩の祭に
出る口上とそ。「やなぎ、いかみく」という口上
とそ。祭を、いかっしょめ、という、古い東藤藩
という。
NHKの放送所がある頃とそ。私がよく放送を
していた被弾京放送ともいう。被弾京の放送局
という、ミッション・パーシラーともいう。
アメリカの兵隊さんが来たという、「ハイ、
ユール」という挨拶とそ、被弾京の挨拶という。
火山弾をめでる米国兵という、これを使う京都の
街ともいう、京都の大原(京都大学附近)の挨拶と
いう、「ハイ、ユウル、れんしょり」という、
被弾しましたという連地の言葉という、後、
丹波市から京都大学へのバスが出るねその謂れ
という。憩いの家という私家から京都大学の今の
医学部へ行くバスとそ、定期のバスです。
私が通したバスという、このお書きが私の書き
で、京大バスという書きです。丹波市白街のことが
書かれている私の憶えの機録という、本書です。
教団の最高責任者という、私のことです。
教団の神殿が私の家です。そこで寝起きしていた
ことという。寝起きの場を、かみまれ、という。
かみを取る言いとそ。
神殿への道、家の裏から新田へ通じる道がある。
この道に沿う地下道という、この地下道に風が
通う音がする、これを毎日聴いていたこととそ。
回廊の角にこれが出る、今もあるやろ、東側
の回廊、そこを来たへ向かいずうっと行く、教祖
殿へ行く、その角という、深い井戸、その上の
地下道とそ。うちが掘った地下道や。風の音がなる
作りとそ。風鳴きのらせ、という、地下道とそ。
その家に住んでたんや。今もあるやろ、
その家、しんたんかりすみ、という、その家の一角
をいう。
懐かしい言いとそ。しんたんの家ともいう。
しんそわれす、という、そわっしょの家という。
神殿の東側である。そわっしょの言葉とそ。
NHKの放送をする設備があうるという、その家
です。
不秋宮という、その神殿の西側の大きな建物
とそ。この建物がまだあることという。教団の
小さな頃という。不秋宮という大きな宮の、
東隣いう、不秋宮東隣揺(ふしゅうきゅうとう
りんゆり)という、わたやましのやという。
その小さい神殿の頃とそ。教団がいわない不秋宮
という。
「ようこそ、おかえり」という言いの場という、
これが、京都の私家の挨拶です。「オッカエリ」と
いう外国人という、外国人がそういう家とそ。
小さい家ですが、大きい家であった日もある、
その頃の挨拶の言いとそ。主にアメリカの建築家、
イタリヤのミラノの建築家という、その方々の
お言葉とそ。懐かしい言葉という。
私が家へ帰れば、「ヨウコソ、オカエリ」と言って
下さる御方という、一緒に住んでいた頃という。
その頃に私家裏に宮があった、おのころという宮とそ。
おのころ期の言いという。その宮が後の奈良丹波市の
教団の本部という、裏の宮を本部という、おのころ
・ゆうふれ、という、集まりの言いという。
この頃に大きなラーテルがいた、丹波市へもよく
連れて行ったことという。そのラーテルが今もいる。
私が会いたいラーテルという。
NHK放送局という、裏の宮の放送局という、これを
、だいわんらく、という、NHKの放送局という。後、
第一放送という、奈良丹波市東藤藩の放送局を、第二
放送局という、この第二から外国へ電波を飛ばす、
におうきらす、という放送とそ。VOAという、ボイス・
オブ・アメリカの日本の放送という、これをやっていた
放送局とそ。アメリカのニューヨーク・インシラに
記録がある。映画にもなっている。ニューヨーカー・
ランセラーともいう。「ようこさ、おかえり」という、
放送のしょっぱなの言葉という。日本語英語という。
アッキャン・レッカンともいう。アッキャンボー・
えいせい、という、英晴、アメリカのワシントン局報と
いう、DCワラセルともいう。このDCワラセルから
ハワイ・ホノルルへ向けてデンパを飛ばす、エルッシク
ルウという、ホノルル放送ともいう。これが、日本と
ハワイとアメリカの三国放送という。同じ内容の放送です。
後、中国の北京放送、カナダのオタワ通信、ロシアの
モスクワ・ローケル、アフリカのイヨビル、アメリカ・
ナイアガラの国際列という放送とそ、加わった話という。
インドネシア・キリンランという、スセバーシア・ロン
クウという、インドネシアの国際連合という、そこの
放送局という。後、インド・タイセマル、アフガニスタン
・コイッカル、ペルシャのイソンフリ、サウジアラビアの
タイクヤミスリという放送局とそ、アフリカのマダガスカ
ルへ行く電波をいう、この電波、ニポノレッケスという
日本放送の列という。アタリバーの言葉という。
アタナリク山のアンヌレスという場所の放送局とそ。
被弾京の放送ともいう。奈良郡山へ移す放送局という。
郡山城の放送という。そこで放送をしていた話しという。
わたしの声の録音がある、郡山城主音という、そういう
こってわす、という、放送の言葉という、放送後の
言葉という、放送が終わり、そういうこってわす、と
いう放送局用語とそ。