小池邸移動

 

                        

 俺の家は移動する。加賀女との住まいだ。
移動する家から見る窓の景色、すこぶる愉快。
猿が顔を出して見ている。

 やわづ河原という。九段山の家という。
東京論傑作の屋とぞ。そこの屋の揺れと
いう。ゴーゴーゴーという、音のべぜす
らという。べぜすらという、引っ越しの
ことである。九段山の言いという。

 俺はとりあえず山を見る。さるけらし
の山という。さるえしという、加賀女と
いう。さるえしの山の世という。 さもや
りの家の華という、かかれっせまる家の
華という。竹をよる言いという。

 さるえしかかれっせという。えびらべ
の言いとぞ。猿の見る家という、東京九
段の家のゆかてという。ゆかて屋のおい
かすという、いよゆっぱしのお言い。

 俺の世の愉快鰓(ゆかいえら)という。
桃誰(ももたれ)の世ともいう、愉快鰓
という、俺の万歳所という。万歳をい
う俺の声という、俺っ所らっくすの俺
の山という。俺が音(ね)猿揺らしみぱ
ゆたの俺の家という。加賀女との新居
という。俺が世を渡る日のはじめとい
う。ゆりゆったす山という。この日、
山が声を出したひのめすという、声を
ひのめすという、九段りっきょるとい
う。

 九段坂の揺り上がりという。「えん
やさて」と表す家の揺らす上がりとい
う、まよしばる屋の言いという。

 猿をめのふらすという。えんさきるり
の猿という。夢覚めるはぺという、はぺ
しるこいくり(恋繰)という。
「こいやさみすり、うられっけん」とい
う、浦を見る、浦列見とぞ。九段の家の
遠足という、遠足がこの行為で始め使わ
れという、遠足という言葉の使いぞめと
いう、初めゆまの輪という、ここを、輪
国という、九段国ともいう、俺の故郷と
いう。俺の加賀女との暮らし初める山の
言いという、暮らし国という、俺のわた
すらる家(や)という。夢覚めるべんてく、
という。ゆめじよ(夢所)ふっかりという。
俺の故郷という、夢ゆたる家(や)のゆわ
しばという。言葉をゆわしばという。
九段りっきょんという、りっきるともい
う。九段の家のいとすりという、言葉と
いう、加賀女のいうまぺつりという。
金沢の言葉という、前田加賀輸の言い
という。金沢の加賀白でいた思い出と
いう、加賀女の言葉である、まぺつり
という、加賀白列句ともいう。加賀の
やの家という、しろっきす闇という、
白い闇が出てくる、出てきた日という。
白闇の加賀という、東京九段をしらや
みがはら(白闇原)という、九段しょっ
けすの言いという。加賀の闇という。
家を動かす時に出る白い闇巳のこと。
加賀所けっさりの闇という、前田公
れめともいう。前田の名の俺という、
前田よきさめ(良夢)という、城での
名という、前田公の名前の謂れという
、よきさめふうくす、という。かがれ
山の言いという、風玖珠という。くす
で言葉を玖珠という。

 猿がめづけくを言う、めづれくの玖珠
目という、くすめいっかすの言いという。
前田の加賀城の言葉という、前田じょっ
くすという。じょう山の言いという、
城っ玖珠という。

 前田にいたという、前田弓浜の家という
加賀城という。天主の間に住んだ時の言葉
という、前田城っ玖珠という、楠ともいう。
木(こ)の葉の山の言いという、木をこという
華の言いという、前田華(まえだはな)という
言葉とぞ。前田加賀女という、花華の加賀
という。俺の新妻である。

 俺の好きなおんなびらぎ(女開き)という、
びらぎっずしの言葉という、九段の寿司屋
の言葉という、はいつみやるという言葉と
いう。九段の寿司屋のやの言いという。
やをひらきという、開き焼きという、かい
しょう(開焼)の言葉という。九段ゆっかれす
の言いという。やさげずともいう。九段の
言葉の呼びという。

 家が動くことをみんたりという。みんた
りすんれくという。すんれく芝の言いとい
う。みんたりをとる九段坂という、さきす
き遣りという。遣りみっしょの言葉という。
みっしょりっせずともいう。密書の言葉の
使いという、九段の言葉を密書という。隠
密使という、みっつりかっすれのきばせの
遣りという。密書言葉のことという、九段
坂語という。

 前田利家のことという。前田家の御曹子
という俺のことという。前田利の名で、利
家を家の名という、利家も俺の名前という。
住む所、住む家の名前を自分の名にする、
前田しらしらという、白々の名前という。
白い闇が訪れるなみさみという。なみさ
み山の名という。前田利家の名前のことと
いう、いわしばのいわれふりという。謂れ
のことという。

 彼女と住む加賀しかるという家の場とい
う、加賀しかるおりかりという、おりしみの
いべという、いべくうさみの言いという。
さみをけるれくという、加賀しかりの場の
言いという。前田公の御言葉という、俺の
言いという。自分を公という、犬闇の言い
という。前田を犬という、まえりんくすの
言いという。犬を尊ぶ前田の言葉という。
御犬公方ともいう。江戸のいよみさのいさ
りという、いよみささっぱすという。

 この「いよみさ」の「みさ」が後にキリ
ストの掛かりという。キリストの初期の掛
かりという。キリストのいばさみ大名とい
う。キリシタン大名という犬公方の山とい
う。前田をキリシタンという、シタンレッ
クスの言いという。前田のキリストという
話とぞ。犬をきりさみという、この掛かり
ともいう。前田犬ら山お言いという、きり
さみ論という、前田利家公のお話という、
犬公方講話という。金沢加賀に置くこの
話という、犬こんせくの置きという、前田

しょっぱんという置きとぞ。加賀女のこと
が書かれている書という私の御書です。本
書とも。