2011年07月26日
両基点宇宙 私の宇宙論 全宇宙消滅論
宇宙は、太陽系を含む、銀河系を含む、この宇宙以外に、少なくとも、もう一つある。
太陽は、この宇宙(銀河系を含むこの宇宙)の違った空間にある。
太陽から発せられた光は、地球を鏡として、まったく違った別宇宙へ飛んでいく。
地球から発せられた光(放発)は、この宇宙へ飛んでいく。これが私の宇宙論です。
音を考えてみた場合、音は光を吸収している。
光は、音に吸収され、だんだん、その力を弱めていく。これにより、
地球は光を反射する力を弱めていく。地球で発する音が、太陽から送られてくる光を、
反射することを弱め、地球が光を反射する力を、だんだん弱めていく。
その結果、別宇宙へ飛んでいく光も力を弱めていく。この別宇宙も、光が
弱くなるにつれ、この光を受ける力を弱めていく。この宇宙と、別宇宙は、
地球を基点に、相、接する。この地球を両基点と呼ぶ。これらの宇宙を両基点宇宙と呼ぶ。
★宇宙は一つであるとする私の論。
宇宙が一つであるとすれば、宇宙は無限である。宇宙は限りある(宇宙の枠)とする考えは、
宇宙が二つ以上あると考えた場合に、宇宙の枠ができ、宇宙が有限になる。
現地球は若いとする考えが、体勢をしめているが、私は既に、地球は年老いて、末期に突入していると考える。
地球が光を反射する力を失い、地球から反射された光を受ける別宇宙も、年老いた宇宙である。
人類が現れた頃、既に地球は、年老いていた。
この宇宙を含め、別宇宙をも含め、全宇宙が年老いた宇宙である。
★全宇宙消滅論
この宇宙は、やがて、消滅していく。地球も年老いた星であり、銀河系を、
また、星座群を含むこの宇宙も然り。
この宇宙とともに、別宇宙も同時に消滅する。すなわち、全宇宙は消滅する。
その末期の宇宙の、地球に、人類が現れた。
地球は永遠であるという人がいる。私は、この言いを取らない。
地球には限りがある。有限の地球である。
やがて地球はなくなり、宇宙も消滅していく。
★これが私の両基点宇宙論であり、全宇宙消滅論である。
★月が光るのは、
月が光を保持しているから。
★星が光るのは、
星が光を映している、また、光を発している星もある。
(恒星宇宙論)
太陽の光が、音を立てて来るという。
あかれという。世は、気を盛るおこという。山の世に、たけをとめるよそという。
たたえみと、たけとねよよと、うかまと、よまと、えけと、よすと、おきょうと、うる山という。
やかの世のけけと、山をとめる世々という。おこの矢に、おけが出るを、ふてと、おろと、やはぐてまという。
えてやみという。うわ山の絵という。えまの世、ここをてらという。えたみの世、うけを、やせとねてほと、
たれと、うくるさまという。あきの世のあまという。
てそを、かれるくくという。せせおきと、たま世と、うてと、ふれと、おみと、ややと、やくという。
この世の、おきょうという。えんこんという。わわの世の、えらをとめる矢という。
うかる山と、あたの絵と、服と、ししという。えれ山のあらと、あきと、うけと、みおと、ふるうくくという。
この世を、えみに、たきをてという。えせの世のうかれという。わわててと、あさと、やるうと、やのと、くれの絵と、
うかれほに、ためを取るせせという。かた山という。えかおと、わたらけを、ふむ、てほという。わわれれという。
横のふかと、せみと、せかと、いると、いるよという。わっせかっという。わらわという、わみと絵をせせるかみという。
さみだしとなる。これをくまという。えわ矢と、えさと、まれと、すみと、せみに、わらをいう。わた山のここという。
このエンのはきを、とれるという。たみのはきという。えらの世のえかという。この世のおけとなる。
えての矢という。うさうさという。うきの絵という。さまと、われと、けこという。けらきしと、わまの絵と、
すすと、えみと、わかをいう。この絵がとまる、ここという。せらという、かおという。めめめ 〆
ためよ ありひ ここがきという。 てほらるえたという。かみの矢という。かさ山のせという。
おおのくくともいう。私となる。えええ、ととと、すするたたという。 けの世のかおという。
うらのやおと、ふると、さわと、えまと、きよに、けけがのる。くくの絵という。
ささやま山という。うつる顔という。
景色の弓という。えまの絵の書きという。さささ、ややや、めもという。たま世の笑みという。
するするかかという。ささみの絵という。さみ世と、おりと、組と、けおとという。えら世の絵となる。
すれてきという。さま世の笑みという。そが山という。そそのえてという。わたの絵となめた世という。
さくら世に、雪を見るわてという。うくみの笑みという。この世の、ままという。けけをとめ、ゆれをする、空という。
人の盾という。盾の絵の書きという。唐読み(からよみ)となる。ここという、わらの山と、えかを見る鎌(釜)という。
せたえみという。見よ、我という。沢の絵という。わわれくく、てらをとめ、せきをいう。そその山、笑みをととという。
くめらるを取る槍という。いやわるすすという。
ててをいう。さか山という、沢の絵と、けけと、ふれと、うると、けにと、すると、みみをたみにいう。
さか山という。えたの書という。えらぶるはなの絵と、くるう槍と、せらうからと、きやと、うるうさみという。
えた山おるかか山という。さんてんの空という。さった山の笑みという。さま世という。すす山と、えろと、
えそと、ふみという。うら山となる。うくのえまという。
さらさら闇のけかという。これが。やとの書という。えみか矢という。えみという、おんという。
えみかをえみという。えみの音(おん)である。蘇我のえみかという、人という。うわ山という。
せかが出るうつという。うれ世の雨という。音を雨という。あまの山という。
これが、宇宙の参天をいう、大和朝廷の頃という。宇宙が三つある話となる。
えかの山の書きという。うちのわという字が、それである。わた音(おん)の闇という。
大和のえとという、話ともなる。くるせという絵という。
宇宙の話となる。既に大和時代で、宇宙をいううちである。はた山の絵がそれを伝える。
古い世に玉をいう。ささという。ささの音という。たまという声が出る。さておきの絵という。
大和世の絵という。ふふれれとめという。れれ書きという。ふつぅの山という。
さか世ててをたたという。ふれゆるけけという。そとの絵ともいう。えたをいう、ふふの矢、手の穂という。
せかを取るせせという。すすらぶみという。ほしという。ほとという。ほくという。たなをての矢に見るという。
これをたな世という。後、七夕となる。たし読みという。七夕(たなばた)をたせという、読みがある。このことをいう。
ほとの山、手をととという。たせという、いいもある。さけという、さんの手々という。
さんの手々と、あてとはな(鼻)をかける山という。これという。えか世という、せととなる。
ふるの絵という。わらわらの絵ともいう。だっきよきという、坂という。だっきという、あわ世という。
これをだっき世という。うゆまという。うささという。裏を手という、歌という。あわらの歌となる。
あわよ絵の書きの韻という。後の音頭である。さっかでる川という。これをあまるとのという。
たさ山という。絵世(えよ)という。かたの絵という。たたえ、かまよという。さか山という、沢の山という。
大和朝という。大和朝という、ためという。らる山の書きという。あぜという、ことのやたという。
あた山という。せなの世という。あれは、あくゆ。ててという。すすす、ららら、よよよ、ううく、さまという。
たれれ書き。よの山の世という、ひわの山という。ととえ、かかみ、すすす、すっくらる山という。
すっくという。これを、今に、うつくしという。「美し」の語源(ごげん)となる。すっくのことをいう。
すっくらるという、うつくしの絵という。里の絵の川という。天(あま)にかかる、さとかわという。
天の里(あまのさと)という。せちの矢と、ほこをいう。ほこの先となる。うる矢という。ほこ世山という。
ぜぜをいう。ぜたる山という。
かぱという、竿(さお)という。れれよざおという。れれさおともいう。おくる山という。ふふれさてという。
さま山のおわれという。山の山という。山世(やまよ)のかかという。代山(だいやま)の絵という。
さか山ともいう。えおという、絵のおまがとる、すくという。この「すく」を、ゆるという。ゆゆゆ、ささゆ、
ゆれゆ、ゆまえととという。この「ゆ」の言いをいとという。後、古語となる。
「行くゆ」という、「行った」の意味という。ささとなる、あわのやとという。
これが、星を宿という、ことの語源(ごげん)という。星が宿る、やどゆという。
宿ったという、古語に見る、星の宿という。語元(ごもと)ともなる。あとの絵という。
朝の山の書きという。わわれ世ともいう。かかやという、そそのやわという。敵を、きんという、戦争という。
戦争という、あたの山という。この矢という。ここを玉を当てるととという。せたの絵という。
さわら山という。うるう笹という。あからやおという。すから山という。うつれ矢をするという。
訪なう手の尾という。雄(お)の御方のおという。
さざれいという。さざれいと、さざを、くくという、てまのえまという。
かかお山の書きという。うつる絵の世という。さざのけを手という、せたのかたという。せたかたの絵という。
唐(から)という、かれという。かれからともいう。からかれを手々のくという。たた世のわれという。
わた矢と、はてと、はなと、わくと、わまと、あわをかれという。これを、さこという。
さま山という、えまの世という。後を、あわるくくという。あた山の絵という。おさるくくともいう。
はぱをはるけけという。これを、はっぱという。 手をいう。はっぱ手という。たおの絵の御方という。
墓に置くたもとという。おた世という。おわだという。いいともいう。いいのともという。よきをいいという。
よき山という。すすと、せと、はてと、矢と、わわという。さっかぶみと名付く。いちひろ書。
小学校3年の書きである。参天ということの意味となる。三つの天、天の川の言われとなる。
これを、発展させた、我が両基点宇宙論という。二つの宇宙という、二つの天という。
二つの天を、両基点が共有する、両基点分岐論ともいう。この山の書きを見るやたという、やおという。
山の絵という、坂山(さかやま)という。山を通る光を見る人という。山が天を分岐する方(かた)という。
やまわきという、名前の語元(ごもと)という。山の分岐点となる。ふく世の書きという。山々のえまという。
えとをいう。えとのなみという、山の絵という。絵の山を書かれたさたという、私の御祖(ごそ)という。
参天の山という。三つの天となる。点を分岐にする、あわという、せらという。せてをくくて、
山世をくくるおみという。臣という。沖と、山と、おりと、おきめと、しんという。山の中心となる。
宇宙の話という。にの山という。寒村の暮れという。かた山という人となる。おわ山という。おさという。
山絵ためというせたの絵という。三角(さんかく)というさんという。わわとなる。かかを取るさたという。
わた山の絵となる。さんとうの闇という。
おら山という。うからその絵という。笹を取るたみという。さま世の絵という。笹をつという。
笹津おりという。津のおりという。 つと、山と、からと、けと、さたと、山世の矢と、絵と、さという。
さのお方の書きという。小林左という御方という。そとのかである。沢世の山という。ややをみこという。
おりおりという。おそそ矢かみという。この「矢」が取る「八上(やかみ)」という、日置の八上てある。今の篠山市である。
昔の言葉が残る御爺さんという。私の御爺さんのことである。「てしょう」と仰る御方という。
「おてしょ」とも仰る御方という。歌世のことを、そう仰る御方という。今は亡き御方という。
さたの山という、天(あま)の絵をお書きという。御爺さんという。青空の山という。青山の絵ともいう。
私という人という。私の顔の絵という。青山顔という、私の顔という。私をそう仰った御方という。
思えば、懐かしきことという。3歳の頃という。青山と仰った御爺さん、私の好きな御爺さん、
今は亡き御方、懐かしき懐かしき御方である。3歳の縁、今も心に残る私という。
御爺さんという御方のお言葉という。「てしょう」である。うく山という、さた音(おと)という。
赤山(あかやま)と仰る御方という。かくも悲しきありあり、懐かしくもありあり、御爺さん、
音のおんという。御爺さんという言葉の音(おん)のことという。
みた世という、ひわという、裏山という。上屋間の御方という、いそ山という、
せわという。せせ世、せら、せせらすす、篠山という。ささの山と仰る御方という。
ささおという、さまとねわらに、わらが笑う玉という。たた山という。たみの絵という。
さわら山という。坂山と仰った御爺さんのお言葉という。天(あま)の矢という、天の川のことをいう。
やもとの笑みという。これを、夏に置く夏という。懐かしいという言葉の語源である。なつく人という。
夏を取るやれという。なま山のうわという。
歌山ともいう。篠山という所のことを、歌山という、古い兵庫のことという。歌山という、
篠山の音(おん)という。尺八の名手という、御爺さんという。歌山節と仰る、今のデカンショ節である。
丹波篠山の話ともなる。この文、御爺さんを寿ぎ、夏を思う、懐かしという御方という、私の絵という。
文の絵である。重い思い、思えば、懐かしき夏おわり世という。夏の終わりという、白夏(すさなつ)の話という。
そめそめの墓という、御爺さんの御墓という。そめぞむ、そめそめという。
なおりの山をいう。坂をいう。さたの絵という。悲しきあり、悲しき世という。
夏をころむ悲しみである。かなをいう。かなの式という。葬送の式のことである。
かなの式という、大和時代の言葉という。私の記憶である。かなの式のかな式、
かなしきのことの言いの由縁という。かなの式ありた日、かなを取るふつという。
ふつ山という、葬送の地となる。葬送をたつる人という。御叔父上の御方という。
かな式の方という。人のおんという。方をおんと読む、かな式読みという。
悲しき読みである。
御叔父上の御方、山を見た御方という、私という、はたを見て、たとをいう花世の御方という。
御叔父上の御方のことをいう。薫御叔父上と仰る御名という。私の好きな御方であった人である。
さまやの絵という、私の絵をほめて下さった御方という。
思えば、古き話である。さんたんの山という。さたをとめ、ふりをいう。さま山という。ささをさまという。
さま山の御御方(おんおかた)である。古い御世のお言葉を話される御叔父上であられた。
かなしきはわれという。かな山ともいう。裏を山という。かな山のあかという。
あらしをとめ、すすをいう、せらの世の音(おと)という。笹世ありてありあり、
篠山ありてありあり、おりおれ、れれおる、れさという。
れれ山の山、あとをれれすという。れれや、れれみ、れれよ、れれをれるという。
れかのえとという。篠山をれかという、原丹(げんたん)の言葉という。石器時代のはたという。
石器の出があった所、今はナンという。ナンの語源という。石器のことをナンという。
原丹の意味である。時といえば、石器時代の初めの頃という。石器時代の頃から、お住まいという。
御叔父上と仰る御方という。原丹の恩叔父上である。
篠山よいとこ、ふるいとこ、げっと山の絵という。げらの山ともいう。げら山という言いもある。
げっと山のここという。山の麓のお住まいという。思いをとめる、がっくという。げんという。
楽器をがっくと仰った御叔父上の御人(おんひと)、懐かしき、かな闇の矢、下さった御人である。
かなしきをいう。今の私という。とろみの山という。楽発(がくはつ)という。二天の矢をいう。
二つの天をお教え下さった御方という。楽(がく)という、たかの絵の矢という。
たか矢の御人ともいう和歌という。和歌をお教え下さった御方という。篠山のおん、ありありあり。
御叔父上お懐かしき夏、白夏(すさなつ)という。悲しの夏という。かな山の御方という。
笑う世のゆ、雨をゆと仰る御方という。悲しの夏のおこという。
ゆあめともいう。原丹という頃の雨の呼びである。暑い夏盛り過ぎを通る雨のことを湯の矢という。
湯矢(ゆや)ともいう。ゆや山をとめる、げそという。いかゆく空という。魚のいかともなる。
いかの絵の矢という、外の穂という。穂矢のことを、ふくという。ふくほやという。そその語元となる。
ごわの山のくくという。くく山ともいう。
わた闇という。今をいう、葬送の夜という。さか山のふくという。昔という。昔のことの、語の貸しという。
ごかしという。ごかしの昔という。ごかし昔という、花世の矢の言葉という。ごかそうの川という。
ごやごやはっぱという。すす山の絵、これを取る絵という。そこの山という。そこ山の山という。
うくうく、そくそく、すむすむ、去った世の話という。世は去り、人の世、ふたの矢をとめ、すけをめるゆり(百合)という。
ゆりさまのこという。みこの語源である。
あわれ世のかなしき、世は去り行くそという。さまさま世、ふけを取るせたという。
されよ、さみよ、さよ、ふるよのかかという。降る世を、世という。「よ」の意味である。さまをいう、ててという。
たおの山のおけという。たた山をそめという。ててやすすれ、そめをてという。坂山世という。
世の世の譜、これという。私の書きである。
一ユ、書きとめ置き。さされ、ささよ、さされれ、れれ置き、れれす、れれは、れれてしょ、れれみ、れする、
れんとうという。れみを取る書という。れっくす書ともいう。れれをれくす山という。れくれれのれれおに、
れやのれれよという。れみおという、せたの書である。我が世という、和歌の世という、わかれれという。
わかれれの書という。書の世の絵のいう、くくという、くくれれという。れゆるれれ、れそという。れれおる、
れれみのれっこという。後、れっつという言葉がなる。れつれつという、れかるれれよという。
れっか書きとなる。れっか書という。
れれよ、ありれれ、あるれれ、あるよれれ、よれれ、れすれれ、れよるれす、る、するれよ、
れれさまよ。れれれ、れれれれ、れれれれれ、れよるれれ置く。よよははという。よはの山、
ささをいう。さまよという。さまよのやかという。さざよ、たまよ、すすれれよ、
れたよ、れみれれ、れれれ、れれ。
ごとくの書という。いちひろ書。〆。